ややもす

偽物のような風景と、ものさし。

めざすぞ

ニャー氏

若かりし頃は毎日言いようのないよくわからないズッシリとした重いものが纏わりついているような感覚があって、まぁ神経過敏な中二病の延長のようなもので、とはいえいい加減に偽物である自分はさほどというか、それが耐えられぬ苦しみというわけでも、それを創作だとかそういったものに向かわせるほど繊細でもクリエイテブでもなくて、十分に存分にしっかりと図太い人間であった自分は気がついたら手頃な現実感を持ちあわせて、ある程度の落とし所と気持ちの置き場所みたいなものを見つけられるようになったのだけれど、じゃあそのズッシリと纏わりついていたものは今どうなったのかというと、たぶんそれは挫折みたいなものに変わったんだと思う。

気持ちの置き場所に気持ちを置いていく中で、色々とサボってきたこととか、自分自身努力してみるも至らない部分、自分の不甲斐ない、しようもない部分が、よくわからないズッシリとした重いものなんてものじゃなくて、はっきりと「失敗」とか「挫折」みたいなものに変わっていた。
なんかそれっぽいフワッとしたこと書いているけど、単純に「馬鹿で図太くて無神経だったから気付かなかっただけで、色々と足りない自分のせいで物事がうまく行ってないんだな、ということに気付かされました」というあるあるなつまらない話なのである。さみしさ。

大事だなとか、好きだなとか、この人と一緒にいたいな、と思う人の前で、すっかりカラッと自信をもって明るい未来を想像できないというか、そういうしょうもない気持ちがうっすらとあって、それがなんとも自分や近しい人をさみしい気持ちにさせます。

こういうのよくないな、悪いな、と思いつつも、仕事はまぁ、現実とともにうまく進んでいて、といっても今だけなのかもしれないけど、まぁそんなアンニュイなメランコリックな気持ちになれど、やるべきことはやって、幸せになるために必要なもの(物理)のために、気分を切り替えてチャッチャと作業できるくらいには大人にもなれているのであった。